パウロ

パウロとは

キリスト教

聖パウロは聖人であり、6月29日が記念日となっています。

もともとはイエスを信じている信徒達を迫害する立場にいましたが、改宗して自らもイエスの教えを信じるようになりました。

しかしイエスが亡くなった後に入信したため、イエスの直弟子ではありません。

そのため、有名な最後の晩餐で出てくる十二使徒の中には入っていません。

とはいえ、改宗してからは迫害を受けようと布教の最前線に立って様々な場所で活躍し、やがてキリスト教の中でも最大の伝道者であるといわれるようになりました。

布教の旅行から3度目に戻ってきた時にユダヤ人によって捕らえられ、裁判にかけられることになりましたが、無罪をローマ皇帝に訴えたいと言ってローマへと送られます。

そしてそこから各地の信者達に励ましの手紙を送ったのでした。

2年後に起きたローマ大火災を皇帝ネロはキリスト教徒による放火だと決め付け、ローマ市内のキリスト教徒たちを厳しく罰したのです。

その一人として聖パウロは殉教したと伝えられています。

パウロの思想

キリスト教に入信

聖パウロの生没年は正確には分かっていません。

イエス没後、エルサレムでパリサイ派の一員として、神殿批判をしていたキリスト教徒を迫害してしまいました。

ダマスコのキリスト教徒を迫害するために向かう途中、聖パウロの目の前にキリストが現れ、キリスト教徒に回心したといわれています。

聖パウロはイエスをイスラエルによって待ち望まれたメシアであると確信し、ユダヤ人、非ユダヤ人でこのことに関心がある人々に広める任務を自覚したとされます。

イエスの福音を伝える任務をイエスから与えられたと確信したのです。

しかしユダヤ教をその時に捨てたわけではなかったとされています。

聖パウロはその後エルサレムでペテロ、ヤコブに会ったとされます。異教徒に対する布教活動を行い、多くの改宗者を獲得しました。

しかしその後事件に巻き込まれ、2年間イサリアでで獄中生活を余儀なくされます。

ローマ市民の権利を行使して、ローマの皇帝に上告し、その後はローマに護送され、軟禁生活を送りました。

その後の動向はよく分かっていません。

パウロの生涯

聖書

新約聖書の著者の1人である聖パウロ。

彼は紀元前10年頃に古代ローマの属州キリキアの州都タルソスで生まれたユダヤ人で本名はサウロとされています。

元々ファリサイ派に属していた彼は当初キリスト教徒を迫害していた1人でした。

しかし紀元34年頃ダマスコに向かう途中、復活したイエスの声に呼びかけられた事によってキリスト教徒へと回心を果たしたのです。

洗礼を受けた彼はイエスの正しさを伝える為に、1回目はキプロス島を中心に2回目以降はギリシアまでと範囲を広げた宣教旅行を3回敢行しました。

この時にパウロを名を変えたとされていますが、3回目の宣教旅行から戻ってきてすぐに彼はユダヤ人によって捕えられてしまったのです。

ローマへと送られて兵士達が監視する軟禁状態の中での生活を送る事になったパウロですが、それでも各地のキリスト教徒達へ励ましの手紙を書き続けていきました。

しかし紀元64年頃に起きたローマの大火事の犯人がキリスト教徒であると皇帝ネロが断定した事により、ローマ市内に在住するキリスト教徒達は逮捕され厳罰に処されてしまったのです。

パウロもその例外ではなく紀元65年頃に斬首となり、その生涯を終えました。

パウロの書簡

手紙

キリスト教の最大の伝道者といわれていた聖パウロは布教活動する中、また晩年捕らえられてローマにいた時に各地にいる信徒達に励ましの手紙を送っています。

送り相手は自分が創立した教会や訪ねようと考えているローマにいるキリスト教徒、協力者などです。

彼が書いていた手紙の内容の中心のテーマは人間の救いについてでした。

教会への手紙には当時の信者達の問題や不安などに対してパウロが答えるというものがありましたし、ヘブライ人への手紙では信仰のすばらしさをとく長い勧告の内容でした.。

パウロの手紙には彼の性格がそのままあらわれているといわれています。

イエスキリスト

自分に起きる多くの困難を喜びと比較し、捕らえられてしまった後もキリストによる信頼と喜びに満ちています。

そして自分の弟子達にも喜びをもって感謝をするようにと伝えています。

自分の殉教を悟った時には最後の手紙であるテモテへの第二の手紙をしたためました。これが遺言であったとされています。